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Sound Art Listening Guide6/サウンドスケープ

パッケージの外で

さて全六回のこの連載も最終回となりました。
最後はパッケージされた音楽作品を一度離れ、サウンドスケープという考え方、学問領域についてお話してみようと思います。
サウンドスケープは、風景を意味する「ランドスケープ」という言葉から造られた造語で、音の風景と訳されます。
この概念は1933年生まれのカナダの現代音楽作曲家、レーモンド・マリー・シェーファーによって1960年後半に唱えられました。

これは産業革命に端を発した騒音問題が1970年代に入ってようやく規制の方向に向かった事と地続きです。
しかし、非常に広範な領域に跨がっているこの音への態度は、それ故に音響物理学、音響生態学、音響心理学、またサウンドデザインと聴き慣れない言葉が次々に出てきて、その問題点が非常に見えにくい。

簡単に言って、シェーファーによる最初の動機はこのようなものでした。
彼は当時、音楽を楽しむ場が閉ざされたコンサートホールに限られていた事に異議を唱えます。
これはもちろん、ケージを踏まえたものです。
ダイナミクスやオーケストラの空間配置によって、仮想的な音響環境を生み出すそれまでの伝統的な西洋音楽の当然の帰結として、コンサートホールはその性質上、私たちが生きている限り聴こえ発する多様で様々な音を遮断し、研究室のシャーレの上の菌の様に成長する事で、一般聴衆の耳からは乖離が進んでしまった。
そこで音を、音楽一般をもう一度街に解き放ち、実質的に私たちの元へ取り戻さなくてはならない。
ケージの「4’33”」はあくまでコンサートホールでの作品だったのに対し、彼は例えばトロントから車で40分程のハートレイクという湖の周囲に演奏者を配置、日の出と共に開始される「星の王女」というオペラ作品や、オンタリオにある原生林に参加者が1週間キャンプをし、あるいくつかのプログラムから自分たちの創意工夫で作品を仕上げる「月を授けられる狼」といった作品により、ケージが提示した沈黙を拡張する事を実践しました。
彼は更にヴァンクーバーを始めとする様々な都市で多くのフィールドワークを行い、その土地の音響特性を調査し記録するという事も始めました。
ただ発せられては消えていくだけの音という物理現象を街や地域という単位で記録し、その音の変遷から環境や人々の生活の変化を汲み取ろうとする彼の仕事は、その記述法までを含めて非常に独自の視点です。

共時的に音空間を認識する事は音楽家でなくとも、ある程度訓練をすれば可能です。
私がサウンドスケープにその可能性を見るのは、通時的に音環境を記録するという事に尽きます。

例えばこういう事があります。
産業革命後のイギリスではそれまでの非常にのどかな音世界が、工場から漏れ出る大きな機械音に街の音響空間が乗っ取られて行ったという経緯があります。
ボイラー製造で働く少年や青年達は一人残らず聴覚障害を起こしていました。
当時の誰もが大きな音は聴覚に障害を引き起こすという事を知っていた。しかし、労働組合も社会革命家も医者も騒音を問題として取り上げなかった。
騒音規制が本格的に実施されたのはそれから100年も経ってからの事です。
それを何故かと考える、という事こそがサウンドスケープの重要な仕事なのです。
シェーファーは次のように仮説を立てます。
太古の昔から嵐や雷など、自然が放つ大きな音に人間は敬意と畏怖を覚えてきました。
その後、教会の鐘の音がそれに取って変わっていった。ヨーロッパの街には必ず教会があって、その鐘の音が聞こえる範囲がその教区とされていました。
これは今から考えるととても驚くべき事ですが、近世までの人々は正に音によって自分の地域を認識していた。これは聴覚情報が視覚情報と同じくらい重要であった事を意味しています。
大きな音は自然から教会へ、そして産業革命後は教会から実業家へその出力する権利を移していきました。
大きな音を出す事自体が問題なのではなく、大きな音を出す事がすべからく市民に許されている事が問題であり、そこには常に権力が宿っている、と。

こういった音から社会、或いは人間の生活を考える種類の仕事は、サウンドスケープという捉え方が生み出される以前は、音楽、社会学、哲学、科学のどの領域でも話し合われてもこなかった事です。
と言いますか、分解して分析する西洋学問の個別の領域内では見えてこなかった話です。

もう一つ、サウンドスケープで特筆すべき点は、音風景を絵画における「図(信号音、標識音)」と「地(基調音)」に分け、更にそこにそうした観察がなされる場所という意味で「場」という三つ目の概念を設定した事にあります。
何が「図」で、何が「地」であるかという図と地のコンテクストの決定は全て「場」によって行われるというのがサウンドスケープの主張です。
ある音が図となるか地となるかは、文化の変容による部分もあれば、個人の気分や興味、則ち個人とその場の関係に依存していて、音の物理現象的な側面とは何の関係もない。
それは、先ほど述べた産業革命後の騒音が100年あまりも経ってから社会問題化された事と繋がり、或いは、旅行者のようにその土地で生まれ育っていない者が例えばヨーロッパの街の石畳をコツンコツンと歩くヒールの音がやたらと印象的に聴こえる、といったような事を照射します。

先ほども言いましたが、それまでの音の研究の伝統的な方法はそれぞれの学問の領域において、ある側面だけを切り離して考察されてきた。
物理学者と工学者は音響物理学を、心理学者と生理学者は音響心理学を、言語学者は音の意味論を、そして詩人と作曲家は音の美学をといった具合に。
しかし、それでは切り分ける時点で既にあまりに多くの要素を失い、歪みや誤解が生じてしまう。
シェーファーはとてもユニークな例を挙げてこれを説明しています。
例えば、今申し上げたそれぞれの要素に、ある音を仕分けて考察するという事をやってみます。
例えば、車のクラクションを考えてみる。
音響学的にはそれは、「定常的、反復的、512Hzを中心とした周波数で、90db」と記述したとします。
同じ音を音響心理学では「突然の覚醒、連続的な振動、中低域音、大きな音、徐々に注意を失う、聴覚疲労を引き起こす」、言語学は「警告の信号」であるとし、美学はそれを「うるさいとか、不快である」といった表現で記すでしょう。
ところが、地域文化とあるタイミングという場の要素がそこへ加わると、意味的に「警告」であったはずの同じ音が、例えば結婚の祝砲、「たった今挙式が終わったばかり!」という意味に、美学的に「うるさく、不快」であったその音が「祝祭的で幸せ」な音に一気に変容するという事があります。
また、それとは逆に物理特性が全く異なる音が同じ意味や美的価値を持つ事も多いにあり得ます。
これもシェーファーの例をあげましょう。
彼の発声する「Pierre,how are you? 」という呼びかけと、彼の著作である「世界の調律」執筆当時のカナダ首相ピエール・トルドーを呼ぶ妻の「Bonjour,Pierre」という声。音響としては音節も周波数帯域も全く違った二つの音ですが、どちらも意味はピエールへの呼びかけであって、友愛という美的価値を持っています。

サウンドスケープは、図と地、そして場の関係性を何かしらの目的の為に記録し続ける、というその理想的な性格から、ともすると、ヒトゲノム計画や近年のGoogleのような支配的な体系を連想させるかもしれません。
けれど、最も重要なのは記録よりも、あくまでその都度立ち現れる関係性に自覚的な状態を作り出す事です。
強いて言うならばサウンドスケープを学習した人のデザインは、より良い私たちの日々の生活の為、視覚が優先的になってしまっている現在の社会に聴覚をある程度取り戻し、豊かで瑞々しい体験を与える社会を形成する為、といった目的に向かっています。
シェーファーの著書の翻訳者の一人であり、日本サウンドスケープ協会の理事長でいらっしゃいます鳥越けい子さんは、平成4年にオープンした大分県の瀧廉太郎記念館の庭園整備を始めとし、サウンドスケープの有効性を具体的に実践しておられます。
しかしながら、経済の要請からサウンドスケープ的観点が導入される機会は、こと日本においてはまだまだ稀有だと言わざるを得ません。

全てのデザイナーは、「作る人」である前に「見、聴き、体験する人」である事を決して忘れてはいけないのです。

文:Yuki Aida/相田悠希

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Yuki Aida

音楽レーベルmurmur recrdsを主宰しているサウンドアーティスト。
アンビエントとダンスミュージックを自在に行き来するその特異なスタイルで
国内外のアーティストや評論家からも高い評価を得る。
これまでにCF、心理療法、映画への楽曲提供と様々な作品を制作。
2010年には元guniw toolsの
ギタリストJakeと共作シングルを発表。

「このまま行ってよし!僕の好きな感じのドローンです(坂本龍一)」