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イメージの混在と融合マルク・シャガール 【美術解説・アーティスト紹介】

イメージの混在と融合マルク・シャガール
【美術解説・アーティスト紹介】

はい!皆さんこんにちは!
今回YouTubeチャンネル「ExpotionTV」ではマルク・シャガールを取り上げました。
動画を見て無い方は是非ご視聴お願いします!良かったらチャンネル登録もしてくれたら喜びます!!

フォービズム、キュビズム。シュルレアリスム
それまでにあった芸術概念が次々と壊されて行った時代のさなか
シャガールはユダヤ人の文化を前衛芸術と融合させ独自の表現方法を生み出しました。
今日は彼がどんな人物で作品にはどんな魅力があるのか見て行きたいと思います。

    本日のテーマ

  • ・シャガールってどんな人
  • ・作品の魅力

プロフィールと略歴 マルク・シャガール

1887年ヴィテブスクで生まれる
ロシアの西方にあるヴィテブスクで生まれます。
幼少の頃は歌やヴァイオリンのレッスンを受け絵を描き、詩を読みながら過ごします。

シャガールの母は息子が立派な仕事に就く事を期待していました。
当時ユダヤ人が通う事のできなかった学校へとなんとか通わせる事になります。
しかしシャガールはこの頃からすでに画家になる事を決めていました。
学校を辞めて地方画家だったベンの教えを受けます。

1906年ペテルブルクで絵を学ぶ
父親との激しい口論の末ペテルブルクに行きます。
当時、ユダヤ人は職業上の理由がないかぎり、ペテルブルクに住む事は出来ませんでした。
商人のフリや裕福な家の使用人を装ったりと偽装してペテルブルクに留まり続けることで
なんとか王立美術学校に入学します。
しかし授業は退屈な物で2年耐えた後、当時ヨーロッパの息吹がするただ一つの学校と言われていた
スヴァンセヴァ美術学校へ転入します。
この学校でトルストイの娘ベラやダンサーのニジンスキーと知り合いました。

1910年パリへ
パリの町はシャガールにインスピレションを与えました。
ここで多くの仲間と知り合います。
パリには新しいアイデアと刺激的な実験が溢れていました。

1914年ベルリンで展覧会
この頃から評価が高まり始めます。

1915年ベラと結婚
ベルリンでの個展の成功の後、一時故郷に帰ります。
しかしこの時、第一次世界大戦が勃発してしまいます。
パリに戻りたかったシャガールの休暇は長く続く事になってしまいました。

1916年娘が誕生
軍務には耐えねばなりませんでしたが、この頃から故郷を題材に絵を描き始めます。

1918年ヴィテブスクの美術委員になる
美術学校や美術館の創設、展覧会を担当し精力的に貢献します。
予算交渉や講師陣との授業内容での争いにはうんざりさせられました。

1923年パリへ
やっとパリに戻りますが、彼のアトリエにあった作品はすべて処分されていました。
ショックを受けますがこの頃から挿し絵の仕事が舞い込みます、なかでも聖書の挿絵の仕事は彼を喜ばせました。
この仕事によりオランダ、スペイン、パレスチナ、エジプト、シリアへ旅をする機会を与えられました。

1939年南フランスへ
賞賛と名声を得る様になっていたシャガールですが戦争の影が再び迫っていました。

1941年アメリカへ亡命
フランスへ進行したナチスの手を逃れる為にニューヨーク近代美術館の招待を受けアメリカへ亡命します。

1944年ベラ死去
なんとか戦火をのがれたシャガールは劇場やバレエの為のデザインを手がけ忙しく過ごします。
しかし平和が宣言される直前に最愛の妻ベラが亡くなってしまいます。
悲しみに暮れるシャガールは何ヶ月も絵を描くのをやめてしまいます。

1948年フランスへ戻る
悲しみに打ちのめされたシャガールを新しい恋愛が立ちなおらさせます。
生きる希望を取り戻したシャガールは1948年にフランスへ戻ります。

1952年ヴァランティーナと結婚
この結婚は彼の人生に新たな幸福をもたらします。
この頃からシャガールはよりいっそう装飾美術に傾倒していきます。
ステンドグラスや大きな絵画制作の依頼が殺到しました。

1985年死去
戦乱と混乱をくぐり抜けた画家は平和への祈りを残しこの世を旅立ちました。

簡単なプロフィールになります。

シャガールさんの印象を一言でいうなら愛妻家で変わり者です。
色々と公共事業に関わったりと優秀で理性的な所も見えます。
当時対立していたピカソ達グループに対しての激しい批判を見ると性格的に激しい部分もあったと思われます。
ですがこの部分は仲間への体裁を保つ為のポーズだった可能性があります。

シャガールも戦争に対しては特にユダヤ人であったこともあり相当な恐怖と悲しみがあったと思います。
当時のユダヤ系の芸術家が選択するのはユダヤ人としての文化、民族的ルーツを全面に押し出した作品を制作するか
もしくはユダヤ系であることをひたすら隠して制作するかの2択でした。
シャガールは前者です、作品にユダヤの文化を取り入れ、自らの民族ルーツを全面に出します。
作品においても民族と故郷はそうとう重要な要素になっています。

それでは作品みていきましょうか

キュビズムの影響

1912年
7本指の自画像

パリに移った直後に描かれた作品です。
7本の指はユダヤ教の伝統的なシンボル7つの燭台を想起して描かれています。
(彼の誕生日である1887年7月7日にちなんで描かれたとも言われています)
宗教的な意味なのか個人的な意味かまたは両方か事実は定かではありませんが
シャガールにとって7と言う数字が特別な意味を持っていたのは確かだと思われます。

画面の中で描いてる絵は故郷の風景です。
窓から見えるパリの近代的な風景が田舎と都会、二つの世界を結びつけています。
伝統的なユダヤ文化の中で育った男が近代的な文化に染まったパリに身を置く
何とも複雑な彼の心境を描いています。

この頃から当時流行しだしていたキュビズムの影響も見られます。
特に分解された顔の部分に見て取れます。
シャガール自身はキュビズムを批判していましたが、彼の所属していたグループが
ピカソ達グループと対立していた事から、わざと挑発する様な振る舞いをしていたと思われます。

ユダヤ文化とキリスト教文化

1911年

私と村
シャガールがロシアからパリに移って1年後に描かれた作品です。
故郷のベラルーシをイメージして描かれました。
ロシア文化、ユダヤ文化、キリスト教文化が混ざった土地で育ったシャガールはこの絵で異なる文化の象徴を描いています。
ともすれば文脈が破綻してしまいそうな要素を幾何学を用いて見事に構成し観覧者にまったく違和感を感じさせません。

シャガール絵画の特徴はイメージの混在にあります。

一途なのか 恋人をたくさん描く

1915年

誕生日

後の最愛の妻ベラを描いた作品です。
シャガールは奥さんをモデルにした作品を多く残しています。
この作品は結婚する2週間前に描かれた作品です。
恋人にキスをするシャガールと内容的には大変幸せな絵なんですが
恋人ベラの明るい表情に比べシャガールの顔色の悪さが少し気になります。
シャガールはベラとの結婚に際して彼女の両親を説得するのに大変労力を要しました
そんな気苦労が顔の色にでてるのかと思ってしまいます。

ただそんな事より不自然にねじ曲がった首と浮いた身体が気になるります。
おぞらく浮ついた気持ちと将来への不安の現れだと思うのですが
シャーガルの絵を受け入れられるかの境界はこの不思議にデファルメされた表現にあると思います。
シャガールの作品はたいがい人が飛んでたり、遠近感を無視してやたら大きかったりと非現実感が漂います。
個人的にこのメルヘンチックというか非現実的表現がどうにも受け入れられず初めシャガールの絵を受け入れられませんでした。

ユダヤ迫害の歴史

1938年
白い磔刑(たっけい)

キリストとユダヤ人の苦しみを描いた作品です。
磷付にあうキリストにユダヤ人を重ねて描いています。
長く続いていた迫害と、この頃行われたナチスによるユダヤ人弾圧
このあたりの歴史的背景には色々と考えさせられます。

シャガールの絵は鮮やかな色使いが特徴なのですが、この絵は暗い色調で描かれています。

ステンドグラス作品

ステンドグラスは元々は聖書の内容を伝える為に誕生しました。
非常に信仰心の高かったシャガールにとって教会の装飾の仕事は喜ばしいものでした。
異なる色のついたガラスの破片を組み合わせて作るステンドグラスの手法は
色彩センスと構成力、彼の特性を存分に引き出す媒体でした。
色彩と構成力、この2点は彼の作品を物理的側面からに見た時の魅力だと思います。

シャガールの魅力とは何なのか

シャガールの魅力は独特な色彩と構成力です。
そこに民族的ルーツや伝統的な手法を取り入れ表現として押し出した事に面白さがあると思います。
キュビズム等の前衛芸術の影響はあるもののそれを上手く消化して独自性を感じる所まで高めています。

シャガールの作品の背景には自らの出自と経験、民族の辿ってきた歴史が込められています。
描かれた要素を読み解いといていくと人種とは何かを考える事になります。
今なお続く大きな問いです、明確な答えは無いかもしれません、ですが重要なのは過去から学び考え続ける事ではないでしょうか。

Yuki Izumi


画像
https://en.wikipedia.org/wiki/Marc_Chagall